ミハイ・チクセントミハイ博士の生い立ち

Mike私の指導教官の一人として日ごろお世話になっているミハイ・チクセントミハイ教授は、今月末の誕生日をもって傘寿を迎えられる。クレアモント大学院大学では、今月6日、長年に亘る彼の功績を称えてのシンポジウムが開催された。多重知能の研究で著名なハワード・ガードナー博士をはじめ、教授の古くからの同僚や共同研究者たちがお祝いを込めた講演を。ロッククライミングを楽しむ教授の若き日の写真に聴衆が驚く一幕も。そして本年11月にはビジネスコンサルタント社さんによる招聘で、チクセントミハイ博士の来日講演が決定している。そんな彼の生い立ちにかねてより興味を持っていたのだが、以前それをまとめる機会があったのでここで紹介させていただきたい。大まかな話は教授がTEDで話されている通りだ。細かな部分に関しては、教授がシカゴ大時代に『Chicago Tribune』誌によって行われたインタビュー記事として掲載されていたり、講義の際に聞いた話もあったので、それらも併せてまとめてみた。

【幼少期】

1934年9月、フィウメ(クロアチア語ではリエカ)にて生を受ける。当時フィウメはイタリア領で現在はクロアチアの都市となっている。7歳から10歳(1939~43年、イタリア降伏の年)の間に第2次世界大戦を経験。戦火を避けるために母と2人の娘、そして幼きミハイは、イタリアとハンガリーを行き来する。兄の一人を戦時中に亡くし、もう一人は捕虜として捕らえられてしまう(長年の強制労働の後に解放される)。戦争の悲惨さを痛感する中、それまで絶対的なものに見え、人々の安心のよりどころだった財産、仕事、家族などが、いとも容易く根底から揺らいでいくのを目の当たりにする。当時10歳だったミハイ少年は幼心に「大人たちは本当の生き方を分かっていないのでは」と疑問を抱くようになる。哲学書を読み漁り、その答えを考えるほどに、戦争がもたらした残忍な暴力、人間性への否定に憤慨し、あまりの矛盾と不条理に、そうまで人を突き動かすものは何なのかと悩みは深まる。また同時に、人はいかにして外的環境に左右されず、人生を創造していけるのか――そう模索しながら青春時代を過ごしてしてく。一家はやがてローマに落ち着き、生活を始める。

【青年期】

1951年、17歳になったミハイは、ローマからスイス・チューリッヒに休暇で足を運んでいた。スキーをしてみたかったが雪もなく、映画を見ようにもお金が無い。ふと、フライング・ソーサー(空飛ぶ円盤)についての無料講演の広告を目する。よくわからないが、暇つぶしにはいいか、と特に期待するでもなく講演に参加。その話の興味深さに彼はぐいぐい引き込まれていった。後々になって、登壇していたのはスイスが生んだ著名な心理学者、カール・ユング博士だったことが分かる。その後、ユングやフロイトの著作を貪るように読み、彼らによる無意識の役割を重視した精神分析学の主張に納得はしなかったものの、これがきっかけとなり心理学に興味を抱いていく。

若きミハイは、深い内省にもとづく詩作に取り組んだり、得意な絵を活かして生活費を稼ぐために映画の広告看板を描いたりした。さらには、戦争の体験をもとにした小説が『The New Yorker』誌に掲載(1962/1972年)されるなど、文芸術面にも才能を発揮した。「かねてより芸術的な現実の捉え方に興味を抱いていました」と振り返る彼は、それらを生業にすることも考えたが、人間の内面への探求心が勝った。ユングとの出会いから5年後、心理学を学ぶため、当時心理学が主要な学問として扱われていなかったヨーロッパを離れ、単身渡米。ニューヨークに着いてからは列車でシカゴへ移動。シカゴに到着した時には1.25ドルしかポケットに入っていなかったという。そのお金でタクシーに乗り、祖国出身であった大家が待っている下宿先へと向かった。

【学問の世界へ】

夜は働き、昼は大学で学ぶ日々を送った。学問に取り組む間、彼は道を誤ってしまったのではないかと悩む時期もあったという。というのも、当時のアメリカ心理学界には行動主義が台頭しており、迷路を駆け巡るマウスの観察などばかりに取り組んでいたからである。ミハイは、「ポジティブ且つ生産的で責任のある人生を送った人たちを、また、いかなる困難にあっても忍耐と誠実の人生を築いていける人々について研究し、理解を深めることに興味を持っていたのです」と語る。その興味の根底にあったのは、尊敬する父や兄の姿であった。特に外交官であった父については――「戦時中父は、ユダヤ人のパスポート取得のため自らの危険を顧みることはありませんでした。アメリカに来て以来、私の父によって命を救われた人たちに会う機会が何度もありました」と懐古する。

また、シカゴは人生の伴侶となるイサベラとの出会いの場となった。ナチスの強制収容所を生き延びた彼女もまた、戦争の苦しみを誰よりも理解する人であった。1961年に二人は結婚し、その4年後にシカゴ大学より博士号を取得。彼の博士論文の校正を手伝ったのもイサベラであったというエピソードもある。時折大学関連のイベントにも顔を出されるが、素敵な笑顔が印象的な方だ。博士論文では、シカゴ美術館の学生における創造性のプロセスについてを研究。そこには、後にフロー理論の構築へと芽吹いていく種があった。卒業後は、イリノイ州にあるレイクフォレスト大学にて教鞭を。その5年後には再びシカゴ大学に戻り、約30年勤務することとなる。世界的にベストセラーとなった『フロー体験:喜びの現象学(原題 Flow: The Psychology of Optimal Experience)』は、その長年の研究を大衆向けに分かりやすくまとめたものであった。フローという言葉が世に出てより40年近く経とうとしているが、深遠なる哲学と着実な検証に裏付けられたその概念は、より一層その重要性・有用性を高めている。

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    • 匿名
    • 2014年 9月 18日

    10歳での問いかけが核心をついてますね!

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